エディ藩さん、安らかに
- 店主すー
- 5月18日
- 読了時間: 4分

去る5月10日、
ザ・ゴールデン・カップスのギタリストで「横浜ホンキートンク・ブルース」を作曲し歌った、エディ藩さんが77歳で旅立ってしまいました。
60年代後半、本牧のクラブで米兵相手に演奏していたこのゴールデン・カップス。
自分なんかが言うのもおこがましいですが、
私は勝手に「大・大・大先輩にあたる戦友(?)みたいなバンド」と思っていたところがありました。
と言うのは、時代が違えど私も80年代に米軍基地回りのバンドに参加し、長いこと米兵相手に歌っていた経験があったからです。
(右下の写真は、横須賀基地にあった今はなきEMクラブ。真ん中で歌っているのが私です。)
そんな自分の耳には、カップスの当時凄かった伝説話は色々入ってきていました。
口で何と説明していいのか分からないのですが、あのシビアで特殊な現場だけは実際に経験した者でないと分からない所があって、私にしてみれば正に「戦場でともに戦った仲間の大先輩」とさえ感じてしまうんですよね。
カップスと言えば「長い髪の少女」という曲をヒットさせたグループ・サウンズと認識してる方も多いと思います。実際私も最初はそれで知りました。
しかしそれは彼らの一面。本来は当時日本でまだ誰も取り上げた事のないBluesやR&Bをカヴァーし、本牧のクラブで米兵相手に演奏していた筋金入りの先駆けバンドだったわけです。
「先駆け」という意味では、戦後アメリカ軍に土地を接収され「基地の街」だった横浜がこのバンドの出身地だったという事が大きく影響しているだろうと。何せ、いち早くアメリカの音楽情報が入ってくる訳ですからね。三沢・横田・横須賀・岩国・佐世保・沖縄なんかもそうです。
私が在籍していたバンドのリーダーHさんは、ベトナム戦争が激化していた60年代後半にも米軍基地内で演奏していた1人。つまり、カップスのメンバーとは同世代。
私はそんなバンマスから「当時、血の気の多い米兵達を納得させる演奏をする事は容易ではなかった」と聞かされていました。
何せ彼らは、明日戦地に行って帰らぬ人となってしまうかもしれないという精神状態な訳ですから、ハンパな演奏では通用しなかっただろうと思います。
そんな時代にゴールデン・カップスは、横浜の米兵達から人気がありました。つまり、いろんな意味で納得させる事の出来る「実力バンド」だったという訳です。そんな凄い大先輩達に私は興味を抱かない訳にはいきませんでした。
カップス解散後、
メンバーだったエディ藩さんやルイズ・ルイス加部さんが在籍しているバンドのライヴには何度も足を運びました。
そんな中、たまたま入った中華街のお店でレジをやってくれたのが、何とエディさんだった事がありビックリした事も。
そんなエディさんの訃報を聞き、ふと思い出した事があるんです。
…それは根岸にある墓地の事。
ちょっと長くなりますが、皆さんにも知って頂きたい事なので是非読んで欲しいです。
ゴールデン・カップスの出身地である横浜という街には、複数の外国人墓地があります。
観光地にもなっている「港の見える丘公園」の近くに「山手外人墓地」や「南京墓地」「英連邦戦没者墓地」。
そしてあまり知られていないのですが、ひっそり存在している「根岸外国人墓地」というのがあるんです。
そこには、第二次大戦後に米兵と日本人女性との間に生まれた多くの混血嬰児たちが埋葬(遺棄)されていると聞きました。
しかしいろんな証言や証拠があるのにも関わらず事実を認めず、公的記録が残ってないのをいい事にそれをもみ消そうとした行政がいたそうです…。本当に酷い話。
そんな根岸の墓地に遺棄されている混血嬰児達の慰霊塔を建てる為、
エディさんは「丘の上のエンジェル」というチャリティー・ソングの作曲をし歌ったそう。
作詞は写真に写ってる『天使はブルースを歌う』の著者・山崎洋子さん。(この本にはカップスの他に「ハマのメリーさん」の事も詳しく書かれてあるので、ご興味のある方は読んでみて下さい。)
けれどその曲について、エディさん曰く「いろんな事を思い出して辛くなってしまうから封印したんだ…」とも。
しかし先日ネットで探してみたら、その曲を聞くことができました。私は聞いているうちに数えきれない思いが溢れてしまい、涙が…。
そしてまた久々に横浜に足を運んでみたいと思いました。
エディさん、どうぞ安らかに。
そしてエンジェルたちのご冥福をお祈りします。
店主すー






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